Diary(blog) 20/09/21

中世初頭の千葉県市原市 20/09/21

三世一身の法(723年)、墾田永年私財法(743年)により、耕地の私有財産化が認められると、律令制の原則であった公地公民制は徐々に解体に向かい、特に地方では、領地の所有をめぐる争いが起こるようになり、領主・領民はその領地を守るため、武装するようになりました。

こうした動きがもとで、「武士」と呼ばれる武装集団が発生したといわれています。

9世紀~11世紀の下総国では、武士による反乱・騒乱が続発しました。

●俘囚の乱 上総俘囚の乱(848年) 下総俘囚の乱(878年) 上総俘囚の乱(883年)

奈良時代から平安時代、当時の東北地方には、まだ朝廷の支配下に入っていない蝦夷(えぞ)と呼ばれる人々が多く残っており、独自の生活や文化を続けていました。朝廷が東北進出を進める過程で捕虜となった蝦夷は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ、関東地方にも数多くの俘囚が移住させられたといわれています。9世紀の関東では、上総(かずさ)、下総(しもうさ)を中心に、この俘囚の反乱が相次ぎました。

俘囚の反乱は、処遇の改善を要求したものだったと考えられていますが、上総、下総で頻発した理由は定かではありません(俘囚自体は全国に分散していた。)。しかし、反乱が頻発したことで、関東は少なからず混乱し、その後の武士の乱、つまり平将門の乱、平忠常の乱が起こる状況がつくりだされたものと想像できます。

引用元:関東農政局ホームページ https://www.maff.go.jp/kanto/index.html

●東国武士の大規模反乱 平将門の乱(939年~940年) 下総の武士 平将門が、叔父の平国香との領地争いを発端に、常陸/上野/下野の国府を落とし、一時は「新皇」を称したものの、朝廷から派遣された藤原秀郷、平貞盛らに討伐された。

平維良(たいらのこれよし)の乱(1003年) 下総国府を焼討ちし官物を掠奪したかどで押領使藤原惟風の追補を受け、越後に逃亡した。

平忠常の乱の討伐に向かう源頼信 引用元:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1

平忠常の乱(1028年~1031年) 平将門の遠縁に当たる平忠常が、房総半島(下総/上総/安房)で起こした武装反乱。朝廷から派遣された討伐軍に対し、3年にわたり抵抗をつづけたが、源頼信により鎮圧された。房総三国はこの大乱により荒廃したという。

国府は、律令制りつりょうせいの制定にともない各国に設置されましたが、平安時代以降、律令制がゆるんでくると、東国では群盗ぐんとう蜂起ほうきするようになり、やがて大規模な反乱が続発するようになります。

俘囚ふしゅうの乱、坂東ばんどう全域を巻き込んだ平将門たいらのまさかどの乱、そして平維良たいらのこれよしの乱、房総三ヶ国が大いに荒廃こうはいした平忠常たいらのただつねの乱。騒乱を乗り越えるなかで、新時代への扉が開かれたことを考えると、まさに中世は東国から始まったと言っても過言ではありません。

市原市は国府が置かれたゆえに、こうした時代のうねりの只中ただなかにあり続け、中世という新時代の黎明期れいめいきに重要な役割を果たすことになります。そして騒乱の歴史は、武士の棟梁とうりょうの成立とともに新たな段階を迎え、源頼朝みなもとのよりともによる鎌倉開府かまくらかいふによって終息します。

引用元:市原市ホームページ https://www.city.ichihara.chiba.jp/index.html

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